Something for you     ― Shota side ―



 たぶんそれは限りなく憧れに近い存在で、そこに恋愛感情などあってはならないと思っていた。
 だって何の取り柄もない、ただ毎日竹刀を握っているだけの人間に、才能溢れるあいつが好意を持つはずはないのだから。
 だから、幻としか言いようがなくて。
 きっと架空の生き物であるはずの龍が俺に見せた幻影だと――

 俺が最初に龍の噂を聞いたのは、中学一年の春。剣道部へ入部してすぐの頃だった。ちょうど用事があって珍しく部活を休んだ日に、事件は起きた。
 光陵学園始まって以来の惨事。剣道部の先輩達はそう言って嘆いていたが、親友の二ノ宮は違う見方をしていた。
 「俺、あんな剣道初めて見た。翔太も来れば良かったのに」
 「悪りぃ。昨日はお袋が勝手に歯医者の予約入れていてさぁ」
 「翔太の好きな剣道だと思うよ」
 「俺が?」
 「うん、龍みたいだった」
 「龍……?」
 二ノ宮とは小学校の頃からの付き合いだが、こいつが他人の剣道をここまで熱っぽく語る姿を久しぶりに見た気がする。
 奴の場合、一言で言えば才能があると、俺は思う。ひたすら努力あるのみの俺なんかと違って、二ノ宮は特に練習をしなくても生まれつきセンスが良くて、簡単に技を自分の物にしてしまう。
 本当は才能なんて言葉で片付けたくないけど、事実なんだ。現に奴は、いまだかつて最初の一本目を取られた事がない。初めて対戦する相手であろうが、先輩であろうが関係なく、無論俺も含めて。だから『無敗の先鋒』なんて呼ばれているぐらい。

 「あれは龍だったよ」
 もう一度、二ノ宮が熱っぽく語った。
 「間合いの詰め方なんてホント龍が滑るみたいで、柔軟って言うか、隙がないって言うか。打突は雷の如しって、感じ?俺、竹刀がヒュンって鳴るの、初めて聞いたよ」
 「そんな、すげえのか?」
 「うん、凄い。先輩達、全員やられちゃったもん」
 「だったら、うちの剣道部も安泰だな」
 「なんで?」
 「だって二ノ宮と俺と、そいつで……」
 「彼、剣道部に入らなかったよ」
 「はぁ?」
 二ノ宮の話によれば、その龍は九州から転校してきた一年生で、いきなり「俺より強い奴はいるか」と言って剣道部へ乗り込んできて、瞬く間に二、三年を蹴散らして帰って行ったらしい。
 その龍の名は、真嶋龍之介。冗談みたいな名前だが、本当だった。
 俺は精悍な顔つきの剣豪を想像した。でも先輩達の手前、わざわざ会いに行く勇気はなかった。二ノ宮には「もしも廊下ですれ違ったら教えてくれ」と頼んだけど。
 
 それから俺は毎日のように龍の噂を耳にした。うちの剣道部だけでなく、よその中学、高校まで、片っ端から道場破りの真似事をやらかしたのだ。いや、真似事じゃなくて、隣街の道場へも行ったというから、れっきとした道場破りだ。
 正直、奴の武勇伝の聞くのは複雑な気持ちだった。同じ剣の道を志す者として憧れもあるし、強さを追い求める気持ちも分からなくない。だけど道場破りでしか腕を振るえないなんて。間違って現世に降りてきた架空の生き物。どこへも行き場のない可哀想な龍。俺にはそんな風に見えた。
 案の定、奴はPTAからも、他校からも前代未聞の大クレームを受け、退学処分になる一歩手前で、担任の恩田先生に助けてもらったそうだ。先生が顧問をしているテニス部に入るという条件で。
 とうとう龍が檻に放り込まれた。そう思った。
お上品なテニス部に入れて飼い慣らそうなんて、先生のくせに馬鹿じゃないかって。自由な校風とか言っているくせに、大人の都合で龍から自由を奪うなよって。
だから俺は、あの日、二ノ宮から退部すると言われた後、剣を置いて五年も経っているのに、迷わず龍のいるテニス部の部室へ直行したんだ。
 
 「ここに真嶋龍之介っているだろ?」
 「ああ」
 「今、どこで練習している?テニスコートか?」
 「ここ」
 一瞬、言葉に詰まった。これまで俺は高校二年の現在に至るまで真嶋と同じクラスになった事がなく、一学年12クラスという当時のマンモス校の中で、名前しか知らなかった。つまり、この時初めて龍と会ったのだ。
 「あの……け、け、剣道部に……入ってくんないかな?」
 とりあえず誘ってみたけれど、気持ちは後ろ向きだった。何故なら真嶋は想像していた逞しい剣豪と違って、背なんか俺より低くて、痩せこけた頬にぎょろぎょろとした目が乗っかった、いかにも性格の悪そうな男に見えたから。龍と言うより、蛇みたいだった。
 掟破りの勧誘をやらかした俺を、真嶋は品定めするような目つきで見た後で、何も言わずに部室から出て行った。
 「ちょっと、おい!返事は?」
 確かに心から誘っちゃいなかったけど、無視されれば腹も立つし、何より二ノ宮の為に、どうしても必要だった。真嶋が剣道部に入ってくれれば、あいつも戻ってきてくれるんじゃないかって。大切な親友を取り戻せるんじゃないかって。
 「真嶋!テニスコートなんかにお前の目指す道があるのかよ?
 本当は竹刀握りたくて仕方ないんじゃないのか?ラケットじゃなくて?」
 我ながら、いい感じに奴の心を捉えたと思った。その証拠に、真嶋の足が止まった。
 「剣道部に入る気はない」
 「どうして?」
 「俺より強い奴がいなかったから」
 ここまでは予想通りの反応だ。悪いが、ちゃんと次の手も考えてある。
 「お前が剣道部の先輩達と勝負したのって、五年も前の話だろ?
今は俺が部長だし、二ノ宮って『無敗の先鋒』もいる。そいつがめちゃめちゃ強くてさ。きっと真嶋も気に入るはずだ。タイプは違うと思うけど、力任せの俺から見れば、手本にしたい奴で……
 なあ、テニスコートじゃなくて、ちゃんとした道場で、俺達と一緒に気の済むまで暴れてみないか?」
 話をしていくうちに、俺は本来の目的を忘れていた。真嶋と二ノ宮と俺とで全国制覇も夢じゃないって、気持ちは武道館へ飛んでいた。
だから奴から質問された時、俺はマヌケな返事しか出来なかった。

「だったら真剣で勝負するか?」
「えっ?」
 「真剣勝負じゃねえぞ。俺と『真剣』で勝負するんだ。
 俺の実家、武具屋だから刀ならいくらでもある」
 「マ、マジで?」
 「人の人生変えるんだから、命ぐらい懸けてもらわなきゃ困る。
先に断っておくけど、俺強いぜ。どうする?」
イエスと答えられれば格好良かったんだけど、俺は正直に答えた。
「そんなの危ねえよ。命は一つしかないし……」
何度思い出しても、この時の答えはマヌケとしか言いようがなくて、「穴があったら入りたい」と本気で思える話だが、真嶋は笑わなかった。
それどころか納得したように頷いて、こう言ったんだ。
「いいんじゃねえの」
そして、今度はふいっと空を見た。

不思議な男だった。一つ一つの行動に意味があるのかもしれないが、あまりに唐突過ぎて凡人には理解できなくて、でもきっと何処かで繋がっていて、それだけは何となく感じ取れる。こんな奴、俺の周りにはいなかった。
 真嶋が空を眺めたままで、ぼそぼそと話し出した。
 「馬鹿は高いところが好きって言うだろ?俺は、どこまで行けるか試してみたかった。
 家飛び出して、竹刀持って、あちこち回って。とりあえず武道館のある東京まで来てみたけど、思うところへは行けなくてさ。
そうしたらジジィから『力の使い方を勉強しろ』って言われた。
で、テニス部へ入ったら、玄がいた。
本当はまだ『力の使い方』もよく分からないし、正直退学を逃れる為ってのもあるけど、はっきり言える事は、ここには俺の仲間がいる。あいつらの為に力を使うのも悪くないかなって思う。
一人で高いとこ登っても面白くねぇし……」
半分ぐらいしか奴のいう事は分からなかったけど、俺は黙って聞いていた。何となく、俺にも分かる日が来るかもしれないって思えたから。
 それから真嶋は俺じゃなくて、空に向かってニッっと笑ったんだ。「いつかお前も、そいつの為に真剣振れるといいな」と言って。
 びっくりした。二ノ宮との事情を知っている風な態度にも驚いたし、ニッと笑った横顔が何故かそっくりだったから。今まで見たことのない、架空の生き物に。



 結局俺は龍を捕まえる事も出来ず、二ノ宮を連れ戻すことも出来ないまま、高校を卒業して、進学先を武道専門の大学に決めた。元々剣の道に進もうと考えていたのもあるし、あの時真嶋が言っていた「力の使い方」とやらを自分なりに理解したかったというのもある。
 大学の四年間で色々学んだけど、最終的に俺が辿り着いた答えは「剣道は剣の理法の修練による人間形成の道である」という昔から言われてきた基本理念だった。剣道は剣の使い方を通して己を磨く精神修行の道なのだと。
こんなの大学へ行かなくてもガキの頃通った道場で暗唱させられていた事だけど、知っているのと理解するのは別だと気がついた。
そして、もう一つ後から気づいた事がある。
 二ノ宮からの告白を受けた後、なぜ彼女と別れようと思ったのか。誰の為に「力の使い方」を学ぼうとしたのかも。 
「リセット」と二ノ宮は言った。リセットという事は、やり直せるチャンスがあるって事だよな。
 あの屋上での告白から随分時間が経ってしまったが、まだ同じ気持ちでいてくれるだろうか。今日はあの時に比べて、少しオレンジ色が濃いような気もするけど、今度は上手く話せるだろうか。
 懐かしい校舎の前まで来て、携帯電話を取り出した。高校時代から変わらない番号を押しながら、俺は空を仰ぐ龍の横顔を思い出していた。




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